2018年2月8日に71歳で父が死去しました。父は肺気腫でしたが、いわゆる治療法は回復に資するものは無く「いかに進行を遅らせるか、合併症を起こさないか」と言う対応しかありませんでした。加えて肺がんも併発していたため手術で左肺の半分ほどを切除した後、介護保険と医療保険を併用した在宅酸素での生活がはじまり、肺炎での入退院を繰り返すようになり徐々に肺機能が衰えていきました。2018年に年をまたぐ頃には、呼吸の際、胸のあたりからバリバリ、パチパチと言うような捻髪音と言うものが聞こえるようになり「もうすぐなのかなぁ。」と最も身近な人のひとりである父の姿に「死とは何か?生きていると言うこととは?」と言うシンプルかつ難解な疑問を提起されたような気がしたのを覚えています。
介護ベッドの上で常時、鼻腔カニューレを付け1ℓ以上の酸素吸入をしながらの生活がはじまり、食事量と運動量が減り瘦せ細っていましたが、肺以外の臓器や身体機能、認知機能は何ら問題ない状態であったため、ベッドからトイレまでの5メートルの距離を休み休み自らの足で歩き、訪問看護師さんのお手伝いで自宅の風呂で入浴もでき、亡くなる前日まで家族と会話をし、母と一緒におやつを食べていました。
父の最期の時は、私の決断によって訪れたと言っても過言ではありません。訪問診療医師より「これ以上は呼吸苦が大きいためモルヒネの点滴で負担を少なくしてあげてはどうか?」と言う提案を頂きました。終末期ケアなどの研修や介護付きホームで多くの方の終末期対応を目の当たりにしてきた経験もあり、その提案がどういうことか、どうなるのかはわかっていましたが、母、妹が判断しかねる中、私がモルヒネを点滴する判断をし、父に直接話をして了承を得ました。訪問診療医師と私の判断は一般的には正しいものであったと今でも思う一方で、終末期を迎えた父に対して伝えた実質的な『死の宣告』を父がどう言う気持ちで聞いてくれ了承してくれたのかを思うと、いまだに何とも言えない気持ちになります。息子の精いっぱいの判断だから従ってくれたのか?自身の最期を受容しての事だったのか?今は確認のしようがありません・・・。
私が仕事に行っている間、朝一番に訪問診療医師によってモルヒネの投与がはじまり、午前の内に様子を見に自宅へ帰ったとき、目を閉じ言葉を発することない父の呼吸による捻髪音と酸素濃縮器の音、動揺を隠そうとしてか?母がやたら話をしていた声が今も鮮明に思い出されます。ほどなくして、父の兄弟夫婦3組が一緒にお見舞いに来てくれましたが、その頃には父の呼吸は努力呼吸に変わっており当然コミュニケーションもとれず先は長くないのは明らかでした。同じタイミングで近くに住んでいた(私の)妹に臨終が近いことを伝え呼びました。父の兄弟と入替りで来た妹の到着を待っていたかのように父が下顎呼吸になりその内に呼吸がとぎれとぎれになり、間近な最期を実感しました。いよいよ父の呼吸が止まっとき、母は子が親にすがるように号泣して「お父さん!息するの忘れてるよ!!」と叫び伝えました。すると2~3度ゆっくりと深く呼吸し、また止まりました。再び母が父に訴える姿を制し「もう十分に頑張ったから楽にさせてあげ。」と私は伝えました。その際、最期まで聴覚だけは残っていると言うのは本当だなと感心しつつも、体の動きが止まりみるみる顔色が変わっていく父や見たことも無く取り乱した母に知らぬうちに動揺していたのか、自分自身が父の最期に感謝を伝えることができたのか記憶にありません。